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私の挑戦の歴史!!
ここではボス猿との対決を始め 私が今までにやり遂げた業績を紹介する 自慢話しコンテンツにしようと思う。
異種動物格闘技戦 人間VSボス猿
1983年2月27日の出来事。私は孤独なローリング族でバイクで峠道を攻めていた。当時RZ、VTが全盛期だった時代にスズキGT185という古いバイクで最新モデルのマシンを追いかけていた。

その日の実物の映像。猿の標識。Uターン禁止、駐停車禁止はローリング行為を抑止するため。

空想の映像。
その日、高校時代からのローリング仲間4人と箱根の旧東海街道 七曲りを攻めていた。
峠の茶屋の前で休んでいると猿の群と遭遇した。その中に際立って大きな猿が居てそれが箱根39代ボス猿との運命的な出会いであった。
人が近づくと逃げる一般の猿と違い ボス猿は牙をむき出し両手を大きく広げ威嚇する。猿社会で自分の絶対的権力を揺ぎ無いモノにするために「見たか!俺様は人間より強いのだ!」と子分猿に見せつけんとばかりに威嚇し 人々は驚いて逃げまどっていた。
私はそれを見て人間としてのプライドを賭け箱根39代ボス猿との決闘を決意したのだった。
それは人間と猿の代表が互いの運命を賭けた、決して負けられない戦いであった。猿に負けて次の日、出勤して人間界に帰って会わせる顔が無い。しかし それは箱根39代ボス猿にとっても同じことであった。子分猿への面子が立たないばかりか猿社会の地位も失うことにも繋がるのだ。
七曲茶屋前で 始まる決闘を 見物人と見物猿たちが取り囲み、その歴史的瞬間を見ようと息を潜めていた。

勿論 実際にはグローブは着用していないが・・・。参考画像として・・・。
私も猿と闘うのは初めてであったが 猿がストレートパンチやハイキックを出すことは考え難く おそらくはフック、引っ掻き、噛み付き攻撃を予想した。いずれも接近戦であるので とにかく猿の間合いに入れさせない戦術をとった。
闘いはあっけなかった。私の前蹴りの連発で 箱根39代ボス猿は撤退を余儀なくされ敗れ去った。
この時点で私が 箱根40代ボス猿のタイトルを獲得した。
一時は人間社会に見切りをつけ家来猿に囲まれる優雅な生活をし猿社会を統治することも考えない訳ではなくもなかったが 私はタイトルを返上し人間界に戻って新たな闘いを求めることになるのだった。

空想の映像。こらがきっかけで後に「ボスザル」と呼ばれるようになる。

実際 闘いが行われた 七曲茶屋前。GT185と私。

ローリング時代の私。マシンは スズキ ガンマ。
女生徒との決闘 (小学生時代)
箱根のボスザル決戦より更に8年さかのぼり、
時に西暦1975年、小学生時代の出来事。
私は「男がケンカで女に負けたら生きる資格など無い!」と言い切った。
その一言が後に大戦争に発展することになろうとは知る術も無かった。
「女を甘く見るぢゃないわよ!」と私の発言にバトルトークを挑んだ女生徒が現れた。
彼女はクラスメイトで成績優秀、正義感も強く模範的な生徒だったが 納得出来ないことは とことん追求するタイプだった。
結局 私は彼女と結婚ではなく、決闘をする羽目になった。
小学生の時期は体力的には男女の差は少ないとされている。特に9歳児の平均では男子より女子の方が大きいと聞く程だ。
ガリガリに痩せている私に対し彼女は ダンプ松本的体系で 私にとっては過酷な闘いであった。
「女に負けたら生きる資格が無い」と言い切った私にとって絶対に負ける訳にはいかない崖っぷちの立場にあった。
かくして この決闘はドリームマッチとして話題になり 担任の先生の耳にも入ることになった。
私は内心 この決闘が先生の仲裁によって中止になることにホッとした。私は彼女に こう言いたかった。
「お前っ!先生の仲裁が無かったら殺されていたところだったんだぞ!運の良い奴だ。」
しかし先生は この決闘を仲裁するどころかプロデューサーとして推進する始末であった。
決闘は体育の時間で実現した。
よりによって授業中に先生公認での決闘とは古き良き昭和の時代といったところだろうか?
ルールは安全を考慮に入れ打撃無しの相撲ルールが採用された。

実際の映像。足の太さを比較して欲しい。
何故か決闘の結果は記憶に無い。私は都合の悪い事はすぐ忘れる習性があるので負けたと思われるが 私は今も元気に生きている。
オートバイツーリング歴

ローリング時代、私が最も愛した 西伊豆スカイライン


85年9月18日、峰越林道にて。

海岸でウイリー競争を楽しむ。

浅間山山頂付近

富士山の麓で一夜を過ごす。
今までの主なツーリング歴
| 日時 | 目的地 | 使用したオートバイ | メンバー | コメント |
| 80 | 奥多摩 | スズキハスラー50 | 小林氏・小幡氏 | 高校時代。 |
| 81・8・5〜8・11 | 仙台の親類宅 | スズキGT185 | 兄 | 帰りは新潟に寄る。 |
| 81・12・20 | 箱根 | スズキGT185 | 兄・伊藤氏 | 芦ノ湖スカイラインを攻めた。 |
| 82・5・2〜5・3 | 群馬県 妙義山 | スズキGT185 | 伊藤氏・富岡氏・岸氏 | 妙義山有料道路を攻める。 |
| 82・8・13〜8・15 | 伊豆半島 | スズキGT185 | 伊藤氏・富岡氏・岸氏 | 初のテントツーリング。初めて流れ星をみる。 |
| 82・10・10〜10・11 | 清里高原 | スズキGT185 | 伊藤氏・富岡氏・岸氏 | コスモスの花が綺麗であった。 |
| 83・2・27 | 箱根 | スズキGT185 | 伊藤氏・富岡氏・岸氏 | 旧東海道 七曲を攻める。 |
| 83・5・1〜5・2 | 房総半島 | ホンダMVX250F | 伊藤氏・富岡氏・岸氏 | 白子YHで泊まる。購入したMVXは2ヶ月で廃車となる。 |
| 84・5・5〜5・6 | 群馬県 赤城山 | スズキRG250Γ | 岸氏 | 峠道・サーキットを爆走した時代。 |
| 85・5・5〜5・6 | 栃木県 那須 | ホンダMTX200R | 伊藤氏・岸氏 | 大川林道でテントを張る。 |
| 85・夏 | 富士山 山頂 | ホンダMTX200R | 単独 | 初の富士山登頂を試みる。帰り清水氏に出会う。 |
| 85・8・14〜8・15 | 尻焼温泉 | ホンダMTX200R | 伊藤氏・飯島氏 | 飯島氏は伊藤氏のGPZにタンデム。 |
| 85・9・18 | 峰越林道 | ホンダMTX200R | 川名氏・増田氏 | 初の林道ツーリング。ダートにはまる。 |
| 85・秋 | 中津川林道 | ホンダMTX200R | 清水氏 | 中津川の沢でテントで宿泊。 |
| 85・10・20 | 群馬県 荒船山 | ホンダMTX200R | 川名氏・増田氏・田村氏 | 廃道を探検する。 |
| 85・11・16 | 房総半島 | ホンダMTX200R | 川名氏 | 房総半島の林道をゆっくり楽しむ。 |
| 85・11・24 | 箱根 | ホンダMTX200R | 単独 | 白銀林道で通行止めの取り締まりに合い、逃走する。 |
| 85・・12・14〜12・15 | 富士山 | ホンダMTX200R | 加藤氏 | 須走口5合目付近でテントをはり、天体観測、撮影が目的。 |
| 85・12 | 奥武蔵 | ホンダMTX200R | 清水氏 | 黒山から登山道で顔振峠に行く。 |
| 86・1・11 | 西伊豆スカイライン | ホンダMTX200R | 兄 | オンロードツーリング。 |
| 86・3・30 | 奥武蔵 | ヤマハ セロー225 | 単独 | セローの慣らし走行。定峰峠を行く。 |
| 86・4・6 | 丹沢 | ヤマハ セロー225 | 川名氏・増田氏 | 犬超峠の林道走行を楽しむ。 |
| 86・4・12〜4・13 | 三つ峠山・丹沢 | ヤマハ セロー225 | 川名氏・増田氏・三好氏 | 三つ峠山でハレー彗星を見る。 |
| 86・5・1〜5・2 | 京都 | ヤマハ セロー225 | 単独 | 京都で豆腐修行をしている伊藤氏に会いに行く。 |
| 86・5・18 | 奥多摩 | ヤマハ セロー225 | 岸氏 | 林道を攻めまくる。一日で410キロも走行し疲れる。 |
| 86・8・1 | 富士山 山頂 | ヤマハ セロー225 | 単独 | 須走口から山頂を目指すが8合目でリタイア。 |
| 86・8・3 | 富士スピードウィ | ヤマハ セロー225 | チーム「アルバトロス」 | YESSサマーフェッシバル。 |
| 86・8・13〜8・14 | 日光 | ヤマハ セロー225 | 単独 | 廃道 志津林道の途中で夜になりテントで泊まる。 |
| 86・8・23〜8・24 | 南アルプス | ヤマハ セロー225 | 川名氏・増田氏・三好氏 | 雨畑林道等、長くてハードなコースを走破する。 |
| 86・9・14〜9・15 | 房総半島 | ヤマハ セロー225 | チーム「アルバトロス」 | 鴨川の民宿で泊まる。夜は祭り見物。 |
| 86・9・22 | 奥武蔵 | ヤマハ セロー225 | 原氏 | 物見山375.4m・日和田山305.1mに登頂。 |
| 86・10・18 | 奥武蔵 | ヤマハ セロー225 | 清水氏 | 白石峠のヒルクライムに成功。 |
| 86・11・3 | 雲取山 山頂 | ヤマハ セロー225 | 清水氏・原氏 | 七つ石小屋付近でオートバイが谷に転落してリタイア。 |
| 86・11・12 | 富士山 山頂 | ヤマハ セロー225 | 今村氏・高橋氏 | 精進口登山道から富士山7合目まで行く。 |
| 86・12・13〜12・14 | 長野県 松本 | ヤマハ セロー225 | 小川氏 | あまりに長い雪道との闘いであった。 |
| 87・4・30〜5・5 | 紀伊半島 | ヤマハ セロー225 | 川名氏 | 初の長距離ツーリング。知らない人の家で泊まる。 |
| 87・6・14 | 富士山 山頂 | ヤマハ セロー225 | 今村氏・高橋氏 | 吉田口下山道で山頂を目指し8合目まで行く。 |
| 87・6・21 | 小富士山 | ヤマハ セロー225 | 川名氏 | 小富士山1905.6mに登頂する。 |
| 87・6・27 | 日光 | ヤマハ セロー225 | 浮間合成のメンバー | いろは坂の「い」で丈二クン転倒する。 |
| 87・7・11 | 富士山 須走 | ヤマハ セロー225 | 川名氏 | 小富士林道から獣道を探検。 |
| 87・8・11〜8・16 | 東北地方 | ヤマハ セロー225 | 単独 | 東北最長の朝日スーパー林道を走行。十和田湖まで行く。 |
| 87・9・27 | 奥武蔵 | ヤマハ セロー225 | 清水氏 | 奥武蔵の登山道を攻める。 |
| 87・10・3 | 富士山 山頂 | ヤマハ セロー225 | 単独 | 太郎坊から標高2590mまで行くがガス欠でリタイア。 |
| 87・10・10 | 富士山 山頂 | ヤマハ セロー225 | 単独 | 念願のノーマルトレールバイクでの登頂を果たす。 |
| 87・10・30〜11・3 | 北陸地方 | ヤマハ セロー225 | 川名氏 | 濁河温泉が印象的。 |
| 87・11・11 | 箱根 | ヤマハ セロー225 | チーム「アルバトロス」 | 七曲でセローで無敵の走行を披露。土井氏が転倒してしまう。 |
| 87・9・23 | 群馬県 赤城山 | ヤマハ セロー225 | チーム「アルバトロス」 | 赤城道路のコーナーを攻めまくる。 |
| 87・11・14〜11・15 | 南アルプス | ヤマハ セロー225 | 兄 | 下部温泉に浸かる。 |
| 87・12・26〜12・30 | 茨城方面 | ヤマハ セロー225 | 島村氏 | 茨城県最高峰 八溝山1022mをオートバイで登頂。 |
| 88・1・15〜1・17 | 八ヶ岳 | ヤマハ セロー225 | 川名氏 | 清里YHで泊まる。初の雪道走行。 |
| 88・2・20〜2・21 | 伊豆半島 | ヤマハ セロー225 | 今村氏・川名氏 | 下賀茂温泉の民宿で泊まる。伊豆の林道を楽しんだ。 |
| 88・4・2〜4・3 | 茨城方面 | ヤマハ セロー225 | 川名氏・増田氏 | 短い林道をのんびり楽しむ。 |
| 88・4・30〜5・6 | 四国地方 | ヤマハ セロー225 | 単独 | 日本最長の林道、剣山スーパー林道を走破。 |
| 88・5・14 | 浅間山 山頂 | ヤマハ セロー225 | 川名氏・中村氏 | 山頂近くで登頂を断念。 |
| 88・6・5 | 峰越林道 | ヤマハ セロー225 | チーム「OFF] | 天気も良かったが、人数が多すぎ疲れた。 |
| 88・7・9〜7・10 | 浅間山・尻焼温泉 | ヤマハ セロー225 | 岸氏 | 尻焼温泉付近でテントを張る。 |
| 88・8・14〜8・15 | 八ヶ岳 | ヤマハ セロー225 | 今村氏 | キャンプを重視したため荷物を多くなり過ぎた。 |
| 88・11・3〜11・6 | 南アルプス | ヤマハ セロー225 | 単独 | YHで泊まりながら ゆっくり楽しんだ。 |
| 89・4・15〜4・16 | 河口湖 | カワサキKDX200R | 単独 | KDXの慣らし運転。YHで泊まる。 |
| 89・4・21〜4・23 | 榛名山 | カワサキKDX200R | 単独 | 榛名山YHで泊まる。宿泊人は私一人であった。 |
| 89・12 | 富士山 小富士林道 | カワサキKDX200R | 加藤氏 | ツーリングというより、撮影が目的であった。 |
数々の冒険旅行で大活躍したセロー225であったが1996年6月23日、茗荷谷駅前でタクシーと衝突して、その長い生涯を閉じました。
因みにオドメーターは53677.7キロ。
私の登山歴
沢登りの冒険
目的地 秩父 水晶谷を登り、雁坂小屋(山小屋)に到達する。探検の基礎を学ぶ。
日時 85年7月26日〜27日
沢登りとは、文字通り沢を登ることである。登山道とは異なり整備されてなく、自然そのものを相手にする。
行く手には滝や崖等の障害物に遭遇し、それらを一つ一つ乗り越えていく。
道も標識も無いので、地図とコンパスで現在地を計算しながら進むのだが、実際には地図に載っていない無名の沢が無数に合流していて現在地を割り出すのは決して簡単ではない。
それと本当に目的地に辿り着くのか、孤独で不安になることがある。確かに整備された登山道よりは数段危険である。仮に事故で死んでも、死体は発見されそうにもない。
今回は山の先生である川名弘之氏に来て頂いた。
装備は山小屋到着が前提としているのでテント、シュラフは持たず軽装備で臨んだ。もし、ビバークする羽目になったら かなりの体力消費は覚悟していた。
足回りは当時 定番の足袋(たび)にわらじである。これが濡れた岩には一番グリップする。しかし わらじは耐久性に欠け予備が必要になる。
一見危険そうな沢登りであるが、水と薪は簡単に現地調達出来るので、重い水筒を持つ必要もなく、いざとなれば僅かな食料でも生き延びれる。
沢登りは景色も目まぐるしく変わり楽しかったが、途中、滝壺に転落してしまう。滝壺は 水深が深く、流れが急で なかなか浮き上がれず、「やばい!死ぬかも。」と思ったが 何とか助かった。
沢登りは最終的には 沢は消え、「藪こき」といって急斜面の藪を登り、尾根を目指すことになるが、それが本当にきつい。一歩進むごとに藪を手で分け道を作りながら登るという気の遠くなる作業の連続である。
しかし幸い ほぼ予定通りの時間で尾根に到達した。その達成感は何とも言えない。
その後は予定通り雁坂小屋に宿泊し、翌朝下山した。

85年7月26日 水晶谷にて
南アルプスの雪山に挑戦 85年12月29日〜1月1日

甲斐駒ケ岳から富士山を望む。
雪山登山は素晴らしい景色を体感できるが、危険が多く、装備が大掛かりになるのが難点である。
下着は 保温性、汗の吸収性に優れ、濡れても不快感が無く、乾き易い新素材が不可欠である。また、上着は風を遮断し、汗を外に逃がす素材でなくてはならない。勿論アイゼン、ピッケルといった専用器具も必要で それらは全て命に係わるモノで金額も高価である。
今回はテント泊まりのため装備の重さはかなりのものになった。4人で荷物を分担したが、それでも一人の装備重量は25キロにもなった。
しかし25キロの荷物を背負って山を登るのは 最初はきついが慣れてしまうと意外と楽に感じる。
筑波山ハイキング 89年12月10日
前日オートバイチームの忘年会で飲みすぎ、気を失い、朝起きると筑波山近くの寮の一室にいた。
暫くすると女性二人が車で迎えに来てくれ、筑波山へハイキングに出掛けた。
昨日の忘年会で意気投合して、筑波を案内して貰う約束をいたらしい。
お陰様で楽しいハイキングが出来た。
後に上原氏はオートバイで世界を旅をして、私も彼女の活躍は本で読んでいた。今何処で何をしていることやら・・・。

筑波山にて。大型バイクを操る石井氏(左)と冒険ライダー上原氏(右)
北漢山への登山 90年4月15日
ソウルに渡って間も無い頃、山道で日本語を勉強しているサークルと出会い、今度一緒に韓国の名山である北漢山を登ることになった。
日本語を使う機会が殆ど無かった私にとって彼等との出会いは ささやかな憩いの場となった。

北漢山 山頂にて。日本語サークルのみなさんと。
漢拏山(ハルラサン韓国最高峰)登頂の旅 90年7月30日
韓国留学初めての夏休み、私は憧れの島、済州島へと飛んだ。

済州島にて
日本から一番近い外国の最高峰。韓国最高峰、標高1950m
”最高峰”という響きに私は弱い。それは私だけでなく、ピークハンターなら誰でも心ときめくものだ。
漢拏山、それは韓国最高峰の山で美しく憧れの山である。
最高峰というワリには東京最高峰の雲取山(2017m)よりも低いもののその迫力は富士山にも迫るものがある。
この山、韓国本土にあるのではなく、済州島という島にある。”島”といっても韓国では飛び抜けて大きい最大の島で、「世界で一番小さい大陸」とも謳われる程である。それはこの島には山、川、平原、都市と大陸にある全てを備えていることに由来する。
とにかく山、海、滝、草原と全てが広大で美し過ぎるこの島には韓国に合併されるまでは独自の文化で栄え、その文化は今も受け継がれている。
将来、殺人経済社会から離れ、済州島の広大な大自然を眺めながら余生を送りたいと思わずにはいられない。
この私の心のパラダイス、済州島に行くチャンス訪れた。
1990年。当時私は26歳、今から思えば人生の中で最も若く、楽しく、心ときめいていた忘れられない年でもあり、今でも思い出すと何故か涙が出る程だ。
1990年7月27日、韓国で語学留学して3ヶ月、ようやく夏休みになり、私はソウルから飛行機で済州島に飛んだ。
韓国語も殆ど出来ない当時の私にとっては不安な一人旅であった。
島の玄関、済州空港を出ると先ずバスの島内一周ツアーを予約し、済州市内を散策した。空と海が実に美しい。そして町の市場は活気に溢れ、生活感が漂う。
その日は近くの旅館で宿泊し翌朝、7月28日、韓定食を食べると旅館前までわざわざ観光バスが迎えに来た。
この島内一周ツアーは2日を要する。島が大き過ぎとても1日では回れない。詳しく見ようとすればかなりの日数が掛かるだろう。
日本とは違い、バスの乗客同士、すぐ友達になってしまう。家族旅行で来た小学生の男子が私の隣の座席に座りたいと寄って来た。がり勉眼鏡のいかにも秀才風の小学生だ。
私「何故俺の隣がいいの?せっかく家族で来たのに・・・」
がり勉「是非、日本の方から直接色々聞きたくて・・・。韓国では日本の悪い事ばかりを教育されます。しかし一方の言い分を一方的に聞かされては真実が見えませんから・・・。」
やばい、なんて賢い子だ。彼は私を”日本人の代表”として見ている。日本人は馬鹿ばかりと誤解を招くかも知れない。
ただ驚くのは日本の小学生で国の教育を鵜呑みにせず、これだけ国際的意識の高い子は居ないだろうということ。
7月30日、いよいよ漢拏山に向かった。天気は快晴。西帰浦からバスに乗り、第二横断道路を北上し登山口へと向かう。
登山道は5つあるがアクセスが楽で一般的なのは オリモクコースと霊室コースの2つに絞られるが私が選んだのは霊室コース。
霊室入口のバス停で降りると登山口に入るが そこから更に上の休憩所までは車でも行ける。タクシーの客引きで賑わっていた。相乗りで詰め込み、一人1000W(ウォン)払うというシステム。それでも1時間半の時間短縮となり大いに助かった。
いよいよ登山開始。多くの登山者で賑わっているが韓国の登山者は登山に対する意識があまく、なんの装備の持たない無謀者で溢れている。私の水筒を見るなり「水をください!」と寄って来る。水筒をわたすと ゴクゴクと一気飲みをし全部飲み尽くす勢いだ。「そんなに飲むな!」と取り上げるが水を求める人は後を絶たず、水筒は空っぽになった。この炎天下で これは深刻な事態であった。登山で水は生命線である。
暫くすると登山者は激減した。どうやら頂上を目指すピークハンターは殆ど居ない様だ。
樹林帯を抜けると高原に出て、草原には牛が放されている。

漢拏山の草原。牛が放牧されている。
ここで最後の水場で給水すると再び山頂を目指した。
ここからは森林は無く、山頂まで険しい岩場が続く。ここまでくると登山者は 殆ど居ない。韓国の登山者は登頂にはこだわらず、トレッキンクや酒を楽しむ人が多い。
登頂すると山頂には全く人が居ない。山頂にはカルデラ湖があり、四方全ての海が見える。つまり、島全てを見下ろせる。

漢拏山山頂。山頂の火口には小さなカルデラ湖がある。

ここが山頂の中でも一番高いピーク、韓国最高地点である。
山頂を一周すると、下山へと向かった。
ここで初めて何故人が居ないのかが分かった。もう日が暮れてきた。ここには山小屋も無い。つまり、昼には登頂しないと下山は夜になってしまうのだ。
プランニングを全くしなかった自分を責めた。とにかく明るい内に少しでも下山を急いだ。
暫くすると 若い女性と知り合った。彼女も私同様取り残された一人で下山を急いでいた。
やがて日は暮れ、辺りは暗闇に包まれた。樹林帯に入り、視界も狭くなった。
私は韓国語歴4ヶ月で彼女の話も半分位しか理解出来ない。
彼女は両親と済州島に来て、両親は済州市内で彼女の帰りを待っていると言うが、ここでは心配しているであろう両親と連絡する術も無い。更に彼女は言う。
「私は今、教会の修道女になるか悩んでいます。私には、いつも神様が付いているから、こんな暗闇でも怖くありません。私に危険があると、必ず誰かが助けてくれます。今日はあなたです。」
すると私は神の使いということになる。
結局 登山道入口に辿り着いたのは深夜であった。
こんな深夜ではバスもタクシーも無く困っていると、こんな山奥で なんと一台のタクシーが来るではないか。
しかし このタクシーは神の使いにしては がめつかった。高額な料金を請求してきたのだ。終始 運転手と彼女のバトルトークが続いた。
済州市で彼女と別れ、私は宿に戻った。
後日、ソウルに戻り、夏休みも終わったある日、彼女から手紙が来た。
「色々迷った結果、修道女になることに決めました。あの時助けてくれて本当にありがとうございました。・・・。」
漢拏山というと、今でも彼女を思い出す。
今までの主な登山歴
| 日時 | 目的地 | 標高 | メンバー | コメント |
| 84・7・27〜7・28 | 谷川岳 | 1963m | 川名氏 | 初の本格的な登山。登頂するが、天候悪く すぐ下山する。 |
| 85・4・20〜4・21 | 雲取山 | 2017m | 川名氏 | 東京最高峰の山。テントで泊まる。 |
| 85・7・26〜7・27 | 水晶谷 | 川名氏 | 初の沢登り。雁坂小屋で宿泊する。 | |
| 85・10・9〜10・11 | 富士山 | 3776m | 加藤氏 | 6合目、山頂、テントで2泊する。突風で苦しむ。 |
| 85・12・1 | 浅間山 | 2568m | 川名氏・増田氏 | 雪山登山の訓練を兼ねての登山。 |
| 85・12・29〜1・1 | 仙丈ヶ岳・甲斐駒ヶ岳 | 3032m・2965m | 川名氏・増田氏・伊藤氏 | 本格的な雪山登山。 |
| 88・6・11〜6・12 | 御岳山 | 929m | 単独 | モトクロスの事故以来の登山。リハビリを兼ねて ゆっくり登る。 |
| 88・7・30〜8・1 | 富士山 | 3776m | 矢野氏・池川氏 | ガイド役での登山。 |
| 89・7・29〜7・31 | 富士山 | 3776m | 母 | 母の夢「富士山登頂」をサポートする。山小屋で2泊。 |
| 89・12・10 | 筑波山 | 876m | 上原氏・石井氏 | ハイキング気分で普段着で登る。 |
| 90・4・15 | 北漢山 | 873メートル | 日本語サークル | ソウル市の北に位置し、山頂からの展望は最高。 |
| 90・7・30 | 漢拏山 | 1950m | 単独 | 韓国最高峰の山。 |
| 03・3・16 | 武甲山 | 1295m | 母・兄 | 奥武蔵最高峰、セメントの山。日本200名山の一つ。 |
両親もバイク乗りでした。バイクは ヤマハYC175.1958年頃の映像と思われる。
韓国留学日記 1990〜1991
クナボジ(父の兄)からのい一通の手紙
1989年、週末ごとに オートバイツーリングやオートバイレースに明け暮れていた生活にも次第に飽きて来た頃、韓国に住むクナボジ(父の兄)から一通の手紙が届いた。
父は在日韓国人二世とし東京で生まれ育ったが、終戦後、家族全てが韓国に引きあげた。韓国語を知らなかった父は当時、大変な差別を受け、韓国人を避け、在韓アメリカ軍に潜り込み、軍の食堂やハウスボーイとして働いた。
後に朝鮮戦争が勃発すると父は北朝鮮から逃れる様に南下し、アメリカ軍で情報関連の仕事に従事する。写真撮影や通訳の仕事である。
戦況は苦戦であったがマッカーサーの仁川上陸作戦によって戦況は一変し、反撃が開始され、釜山に居た父も一気に北上し、中国国境まで進撃するが、中国の参戦によって再び南に逃れ、その後はこうちゃく状態になる。
父は日本への思いが強く、釜山から密航船に乗り、北九州に上陸し、その後、東京でカメラ店の仕事をし、家庭も持ち、私が生まれた。
その様な理由で父は日本には親戚は居ない。
あれから何十年もの歳月が経ち、韓国の父の兄(以後クナボジ)は我々の兄弟の内、一人を韓国で語学留学させ、次世代の交流を望む手紙が来たのだった。
私はそれに乗って、自ら韓国行きを志願した。さっそく8年勤めた会社をあっけなく辞め、語学留学する延世大学の入学までの6ヶ月間、オートバイで日本一周をするための準備をしていたやさき、クナボジから電話が来た。
クナボジ「仕事を辞めたらしいが、入学までの6ヶ月間何をするんだ。」
私「大丈夫です。こちらも することがたくさんありますので・・・。」
クナボジ「時間が勿体無い!今すぐ韓国に来い。延世大学ではなく、ソウル大学だったら もうすぐ入学だ。もう入学手続きは終わり、既に入学金、学費も納めた。
私「・・・・・。」
そんな訳で日本一周の夢は断たれ、私はソウルに行き、クナボジの家で住むことになった。
当時、語学留学といえば延世大学が最も歴史があり、主流であった。それに引き換えソウル大学は始まったばかりで教室も体育館の一室で行われて、教科書も お粗末であった。
授業は英語で行われ、英語を知らない私は大変苦労した。

当時はこの体育館の一室で授業を受けた。


当時のクラスメイト。何故かみんなアジア人。
語学留学は3学期あり、初級班を終え、中級班になると多くの西洋人が入ってきた。その中でスティーブというアメリカ人とタイ人のケンと仲良くなり、勉強を怠け、遊ぶようになった。特にイテウォンの夜の街が我々の遊び場だった。
私の人生で1990年の夏は最も熱い夏だった。

イテウォンの夜。スティーブと。

タイ人のミサコンの家でささやかなる 27歳のマイバースデー。
熱い夏が終わり秋になると、私は中級班を終え、上級班に進んだが、友人の多くは延世大学に編入したり、止めたりし、上級班は真面目な学生ばかりで 私にとっては 退屈な日々となった。

上級班のメンバー。真面目過ぎる顔ぶれ。

外国人弁論大会にて。一番左が私。
韓国での日々は私にとって大きな財産になった。
帰国してからは辛い日々が何年も続くことになるが、この時の私は そんなことを知る術もなかった。
憧れの国、タイへ 2006
私がタイに憧れを抱いた理由は今から16年前のソウル留学時代にさかのぼる。当時、クラスメイトにタイ人は4人居たが、みんな良い奴だった。
彼らの独特な「微笑み」からは 何とも言えない安堵感を覚えたものだった。
私達は互いに ニックネームで 呼び捨てで呼び合う習慣になっていた。因みに私は本名の「秀行」を韓国読みにして「スーヘン」と呼ばれていた。
特に親しかったのは ケンと ツゥイという二人の男だった。
あれから16年、ケンとは年賀状だけの付き合いになっていて詳しい事が分からない。
ところが、今年の年賀状の返事がEメールで届いた。しかし、全てが英語で分からない。しゅうじ氏の翻訳によって、ツゥイが翻訳の仕事で成功していることが分かったが、肝心のケン自身のことが、何一つ書かれていない。
何故か急に彼等に会いたくなった私は 遂にタイの航空券を買ってしまった。
さっそく ケンに電話したが、16年間使っていない韓国語でのやりとりはきつかったが、ケンは空港まで迎えに行くと言っている様な気がしないこともなかった。
私は5月末で今の会社を辞め、6月8日には新しい会社に就職することが決まっていて、その間の一週間を利用しての旅行となった。
6月1日(木) ケンとの再会
タイ語の全く出来ない、一人旅の私、頼りになるのはケンしか居ない。
成田空国までは京成線、日暮里から僅か1000円という安さ。そして私が搭乗するUA837便は深夜のバンコクに着く。不便ではあるが安いので仕方ない。

機内食
搭乗すると、両隣は西洋人の若い美女、これは最初から女運に恵まれた。
機内では日本の友人で「タイおたく」のAOK氏から借りたタイ語の本を読んでいた。
右の窓には、台湾の夜景も見え、その私の知らない生活の灯に強く哀愁を感じた。
やがて機は バンコク国際空港であるドンムアン空港に着陸した。
私にとって運が良かったのは、現在工事中の新空港の完成が遅れたこと。もし予定通り完成していたら、バンコクまでのアクセスは遠くなり苦労していたことだろう。
そして空港ではケンとの再会が実現し、我々は喜び合った。
外に出ると、暑い。これがAOK氏が言っていた タイの空気かと思い出した。
さっそく ケンのクルマでケンのアパートに向かった。先ず感じたことは「ここも日本と同じ左側通行か」ということ。私は日本以外、全て右側通行と思っていた。
車内での話しで ケンは まだ独身で 今は一人暮らしということが分かった。
ケンは私と同い年だが、元柔道タイ国内学生チャンピオンで、ユーモアのセンスも抜群で、友人も驚くほど多い。もうとっくに家族を築いていると思っていた。一方ツゥイは韓国女性と結婚したものの子供は居ないとのことだった。
この日はもう深夜で、近くのセブンイレブンでビールを買い、ケンのアパートで ささやかに再会を祝った。
6月2日(金) バンコク市内へ
ケンのアパートはドンムアン空港に近く、バンコクの北にある。

ケンのアパートの一階でミネラルウォーターを販売。ペットボトル持参のためゴミが出ない。
朝、アパートを出ると市場でパンとコーヒーの簡単な朝食を楽しんだ。ここはハエが多く、ハエを払いながらの食事となった。
クルマでケンの経営する携帯電話関係の店舗があるパホンヨーティンに向かい、店を店員に任すと、ケンがバンコクを案内してくれた。
かなり前、ケンは韓国から帰国後すぐに出世して課長職をしていたと風の噂で聞いていたが、人一倍自由を求める彼は結婚もせず、独立という生き方を選択したようだ。

昼寝するツゥクツゥクの運転手
我々二人はBTS(スカイトレイン)でサパーンタクシン駅に行くと、憧れの大河、チャオプラヤーが私の目に飛び込んだ。川の水はコーヒーミルク色で透明感は全く無い。
ちょうど この時、チャオプラヤーでは10年に一度行われる祭りで民族衣装を着た船人達が水上を大行進をしていた。


小さな船旅

チャイナタウン
ここから小船でラーチャウォンまで川を上り、そこからはチャイナタウンを歩いた。狭い路地には無数の店舗が並び、その狭い路地の人ごみの中をオートバイが走り回る。途中、龍蓮寺でお参りをいた。

ワットポー

その後、あの有名なワットポーに行った。このお寺の芸術は言葉では語り尽くせない。また言葉も不要である。チャオプラヤーの対岸にはワットアルンがそびえ立ち、この世のモノとは思えない美しさであった。

チャオプラヤー対岸にそびえるワットアルン
帰り道で いよいよ初めてタイの名物、三輪タクシーのツゥクツゥクに乗った。料金は交渉制で かなりアバウトである。一台目のツゥクツゥクは150バーツでパスし、二台目は70バーツで乗ることにした。しかしツゥクツゥクはドアも無く、安定性も悪く、かなり危険である。それと上部のテントが邪魔で意外にも景色は見えない。

初めて乗ったツゥクツゥク
夜、もう一人の旧友、ツゥイとサウナで再会した。ツゥイの赤ん坊の様な笑い顔は今も健在であった。それにしても凄く豪華なサウナである。テーブルには豊富な飲み物、果物が置かれていて、昔話に花が咲いた。
ここは単なるサウナではない。ウインドガラスにはマッサージをしてくれる美女達がたくさん並んでいて好みの美女を選ぶのである。
女に縁の無い私には余りにも大きなカルチャーショックであった。
「しかし、言葉が全く分からない俺はどうすれば良いんだ?」と尋ねると、ツゥイは「言葉なんて必要ない。身体さえあれば良いんだ。」と答える。
私の選んだ美女は なんと韓国語が少し出来、かなり助かった。
中略

タイのレストランにて。左から、私・ツゥイ・ケン
全てが終わると我々は遅い食事と酒を楽しんだ。特にエビチャーハンは美味かった。
タイは女は綺麗でメシも美味い、なんて良い国なんだと涙がこぼれる。
この日もケンのアパートで宿泊する。
6月3日(土) パタヤーへ
今日、ケンは店で仕事をすることになり、パフォンヨーティン駅でケンと別れ、私は初めての一人旅となった。近くのデパートでタイの物価チェックと見物を楽しんでいた。
すると前からきた通行人とぶつかりそうになり、左に避けたが、今度はそこに居た女性にぶつかってしまった。
私は思わず「コートート(ごめんなさい)」ではなく、「アイムソーリー」と言ってしまう。
それに対し彼女は「アーユージャパニーズ?」と言うと英語でペラペラ喋り始めた。英語の分からない私であったが何故か意味は通じた。
彼女の名はレンディ。今、ここに日本語の上手いフィリピン人が来るから、それまで喫茶店でも行きましょう。とのことだったらしい。
暫くすると、日本語の達者なフィリピン女性のケイがやって来た。
我々は暫く喫茶店で過ごしたが、そのうちケイが「これから私のオジの家で昼食をするんだけど来ない。」と問いかける。
そのオジの家は大きな一軒家で、かなりの裕福な生活を思わせた。
食事が終わると、オジは私に「是非、私のトランプテクニックを見てください。」という。
英語と手話の説明であったが、意味は分かった。ブラックジャックでカードを配るのだが、僅かな指の置き方で、私に次に来るガードを知らせ、私が必ず勝つようにするのだ。彼は言う。
「私は色々な国で長年カジノでカード配りの仕事をしていたが、誰に勝たせるかは思い通りに出来る。今日ここでギャンブル仲間が集まり、トランプをするのだが、どうだろう?君もしてみないか?君に勝たせてあげよう。」
私は「ノー、アイ ライク ノット ギャンブル」と言い、彼の家を後にした。
私は本当にギャンブルは嫌いである。金を取られるのも、仲間から金を取るのも良い気分はしない。ましてイカサマなんてゴメンである。
ケイはタイ滞在中、もう一度あって欲しい。と言うが、私はタクシーで再びパフォンヨーディンに向かい、散策を楽しんだ。
公園を歩いたり、オートバイ屋に足を止めたりした。ここのオートバイはスーパーカブをスポーティスタイルにしたモノが主流である。また、日本では生産されていない空冷2サイクルエンジンも良く見られる。
夕方にはケンと待ち合わせたコーヒーショップでケンと合流し、夜のハイウェイを飛ばした。ケンが言う。
「今夜、友人達がパタヤーで集まって、オカマショーを見るんだ。一緒に行こう!」
パタヤーはバンコクからかなり離れた海辺の観光地でハングルの看板が目立つ。
我々は到着に遅れ、最終ショーに間に合わなかったが、最後にカッツゥイ(オカマ)達が外に出て来てくれた。

カッツゥイのショー
さすが世界トップレベルのオカマだけあり、女性以上に美しい。あの細い指先など、どうやればなれるんだろう?理解出来ない。
その後、夜空の下で食事とビールを楽しんだ。星空には木星と月を結ぶ黄道(地球から見た太陽や惑星の通り道)が ほぼ天空にあり、ここが日本より赤道が近く、地球が丸いことを実感する。
もう深夜になり、私はケンの予約したリゾートホテルで寝たが、ケンは20人位集まった友人達と更に楽しんでいた。

ホテルからの海の展望
6月4日(日) ナコンパトムへ
この日、バンコクに戻り、ケンは仕事、私はケイとその友人2人と会うことになった。二人の名はメイとロセ。
我々はイタリア料理店で長話をしたが、彼女等は、日本の男と結婚して、日本に住みたいと主張する。特に29歳メイはしつこい程に私にせがんだ。
しかし、そんなに日本って良いのかな?私には理解出来ないが、それでも、そんな彼女達との別れが悲しくもあった。

左から、私・ロセ・メイ・ケイ、イタリアンレストランにて。
夜、ケンといつものコーヒーショップで合流し、再び、夜のハイウェイを飛ばした。

タイのガソリンスタンドのネオン
今夜、ケンの故郷の田舎町ナコムパトムで幼なじみとカラオケに行く約束をしたという。
ナコムパトムはバンコクの遥か西にあり、遠い道のりだ。
それにしてもケンはタフである。24時間殆ど動きっぱなしである。
カラオケが終わると この町の一番大きな娯楽場に行った。
ここにもウィンドウガラスには美女が揃っているて ケンは好きな女を選べと言う。美女達は みんな番号札を付けており、私は53番の娘に一目惚れしてしまった。
こんな美しい女性とは話すのも初めて。マスク、スタイル、指先、声まで全てが完璧で、まるで人形みたいである。
「俺は男として生まれて来てよかった。このまま死んでも構わない。」こんな思いは初めてであった。
中略
この日はケンの親類の家で宿泊した。
6月5日(月) 高級カラオケ店で働く美女ジューン
ここナコンパトムには ワット プラパトムチェーディーという大きなお寺があり、その塔はとてつもない高さである。町全体を統一してしまいそうな存在感で神秘的である。

コナンパトムの街に聳え立つ ワット プラパトムチェーディー
田舎町ならではの自転車タクシーも走っていて情緒を感じる。
この日、私は一人でバンコクを歩いた。カオサンでケンと別れ、夜、ムエタイの聖地、ラーチャダムヌーンスタジアムで落ち合うことになった。

カオサンの町並み
ここカオサンは放浪の旅をするバックパーカー達が集う街。雑魚寝で一泊300円のゲストハウスもあり、1000円も出せば個室のここの水準では最高級の部屋が借りられる。歩いているバックパーカーは白人が圧倒的に多い。雰囲気もタイとは全く違い、まるで西洋の国に居るようだ。
カオサンから国立美術館へ行ったが、閉館であった。恐る恐る国立博物館へ行くがここも閉館。何処へ行こうかと地図を見ていると、紳士風なタイ人男性に英語で声を掛けられた。「何処へ行きたいのですか?」
「そうですね有名なお寺、ワットフラケオでも行こうと思います。」そう答えると、彼は・・・
「駄目だ。あそこは神聖な場所で、あなたの様な半ズボンでは入場させてはくれない。それに今日は月曜で観光地は休みの所が多い。どうだろう、ワットモンクルというお寺を見た後,洋服屋を見ては。特にシルク製品は品質が良く、驚くほど安い。」
そして彼は私の持っている4色ボールペンを気に入ってしまい、あげてしまった。彼は大喜びで一台のツゥクツゥクを止めると運転手にコースを説明した。料金は交渉で40バーツ(120円)ということだ。
到着した寺では運転手は案内もして、見学中では私を待っている。時間も掛かってしまい、運転手にとっては40バーツではとても合わない。最終目的地で私は60バーツあげた。
その後、一人でひたすらバンコクの街を歩いた。タイの欠点として交通整備が挙げられる。満足な横断歩道は無く、どう考えても信号が必要な横断歩道があるが、クルマが途切れず、渡るのは かなり危険である。まして年寄りや障害者はとてもバンコクを歩けない。
日本はバリアフリー法が進んでいて タイに比べかなり安全で快適な散策が出来るといえよう。

ひもで繋がれていないワンちゃん。暑いせいか?みんな元気が無い。
それと日本との違いは犬事情である。日本では首輪にひもを着けるが、ここでは犬は自由に放されている。犬が道路を横断する時はちゃんと左右の安全確認をしてから渡るのには驚いた。

ラーチャダムヌーンスタジアム
夜ケンのと約束の場所、ラーチャダムヌーンスタジアムに着いたが、ケンの姿は無い。かなり時間が経つので公衆電話をしたが、何故か通じない。
ずうっと待っている私に見かねて、ラーチャダムヌーンスタジアムの呼び込みをしているお姉さん達が声を掛けてくれ、すっかり顔馴染みになった。
お姉さん達は日本語も達者でその内の一人は相模原市で6年も住んでいたという。
彼女の携帯電話からケンに電話して貰い ようやくケンと通じた。仕事で少し遅れるとのこと。
しかしムエタイのチケットは高過ぎる。1000から2000バーツ。そんな金があったらもっと楽しいことに使える。それに私はキックボクシングに関しては自分がやるのは好きだが見るのは決して好きではない。
今夜はツゥイのカミサン ミミも交え、韓国料理店で夕食を楽しんだ。カミサンは韓国人で、ツゥイも韓国語の翻訳の仕事をしていて、私以上に韓国語が上手くなっていた。
その後、わたし、ケン、ツゥイの男三人でカラオケに行った。それにしてもこのカラオケ屋、とてつもなく豪華である。そして一人一人に女性が付く。しかも女性がずらりと並んでいて選べる。
しかしタイですっかり目のこいた私にとって気に入った娘は一人しか居なかった。みんな私に先に選んで良いというので、遠慮なく彼女を選んだ。
私の選んだジューンは美人で欲がなく下向きで相手にとことん尽くすタイプの娘であった。そして歌が抜群に上手い。
私達は共に過ごした1990年の韓国のヒットソングを歌いまくり、酔いしれていた。それにしてもケンもツゥイも韓国の歌をよく知っている。そればかりか日本の歌、昴や北酒場も知っている。
ジューンとはすっかり仲良くなり、ホテルで共に幸せな一夜の夢を過ごし、彼女は私の下着類を丁寧にに洗濯してるれ、携帯番号まで教えてくれた。
タイ語の出来ない自分が悔しかった。
6月6日(火) 最後の夜での再会の誓い
昼の11時20分頃、ケンがホテルまで私を迎いに来てくれた。
今日は土産を買いに ラーマ9世駅行った。私は土産なんて要らないとケンを突っぱねたが、ケンは聞く耳を持たない。
私はモノを買わない性格だが、かさばる ある枕に一目惚れし、自分用に買ってしまった。ケンは私の母への土産を買ってくれた。
その後、回転寿司で夕食を楽しむ。
外は突然のスコール(大雨)である。タイでは今雨季である。毎日、一日の間で目まぐるしく天気が変化する。晴れたり、雨が降ったり忙しく、そのため虹をよく見る。
夜、空港のそばのサウナで3人が集まり、サウナを楽しんだ。ツゥイは言う。
「タイの女は良いよ。欲張りでなく、やさしく、相手を束縛せず。何でも感謝し、尽くしてくれる。」
私も同感であった。タイ人女性には その表情に底知れない魅力を秘めている。
その後、ここのサウナで、私の選んだ美女、バァーンの心地よいマッサージ+αのサービスを受けた。
帰りの航空券はUA852便、早朝6時50分発である。
ツゥイは「今宵は朝まで語り尽そう!」と言ってくれた。事実我々は朝まで飲み明かし、空港にチェックインすると空港のコーヒーショップで出発時間ギリギリまで別れを惜しんだ。
「ケン、ツゥイ、本当にありがとう。今度来る時は少しはタイ語を勉強して君達には迷惑は掛けないよ。また会おう!」
そう言って別れた。
私は機上の人となり、バンコクを後にした。そして機内でぐっすり眠りについた。
6月7日(水) 日本での新たな闘い
もう何年も節約生活に徹している私にとって、このバンコクでの生活は信じられないことの連続だった。
そして何よりも 強いカルチャーショックを受けることになった。日本に無い、忘れられた幸せがタイにはあった。
明日からは新たな仕事。また新たな目標を目指すことになる。仕事を軌道に乗せるまでの暫くは仕事中心の生活になりそうだ。
タイには必ずまた行く。いずれ永住も考える程すっかり気に入ってしまった。
最後にケン、ツゥイは勿論のこと、私に係わった全ての人々にお礼を申し上げたいと思います。コックンクラップ(ありがとう)。
完